岩本楼の歴史
History of Iwamotoro
岩本楼の歴史
History of Iwamotoro
岩本院文書(藤沢市文書館寄託)
江の島弁財天詣での浮世絵を表紙にした岩本楼初期のパンフレットです。
竣工当時の江の島弁天橋
大正時代の海水浴の様子
天皇家のご宿泊やご休憩の謝礼(当館資料館蔵)
「岩本坊」から「岩本院」へ
旅館・岩本楼本館の由緒は、はるか鎌倉時代のお寺「岩本坊」に遡ります。時は源頼朝の時代、「岩本坊」は、江の島岩屋および、江島神社中之坊(現在の奥津宮)の管理を担う別当寺でした。後に、「岩本坊」は「院」号を与えられ、宗教権、支配権、経済権を掌握する江の島一山の総別当となります。
当時は源頼朝を起源とする「江の島弁財天信仰」の高まりにより、将軍や諸国大名などが江島神社を参詣し、「武運長久の神」として弁財天を崇めていました。その参詣の折、休憩所や宿泊所の役割を果たしていたのが「岩本院」です。
その後、天下泰平の江戸時代に入ってからも、歴代の将軍が頼朝を崇拝したことから、江戸の町では弁財天信仰が盛んになりました。当時、庶民の間では集団での行楽が禁じられていましたが、江戸時代後期より、神仏参拝を名目とした庶民の観光が増え、江の島は大変な賑わいとなりました。
「岩本院」から「岩本楼」へ
「岩本院」は、江の島の総別当を長く務めましたが、明治以後の神仏分離の気運の高まりにより、神道をもって祀りを行うことを政府に願い出ます。これによって「岩本院」は寺主から神主職となり、「江島弁財天」は「江島大明神」となりました。
その後の明治6年、江の島でも廃仏毀釈が強行されたことから、弁財天に関連する全ての施設の取り壊しが命ぜられ、島内の弁財天像や諸国大名からの奉納品は「岩本院」へ御下渡しとなりました。
そして明治7年(1874年)3月、「岩本院」はそれまで宿坊だったことを活かし、「岩本楼」として旅館を開業します。しかし、この頃すでに江の島の参拝客は減少の一途をたどり、「岩本楼」にとっては苦難の時代の始まりでした。
江の島の発展と岩本楼
その後、明治半ばに入り、サムエル・コッキング氏による大庭園・温室の建設や、横浜在住の外国人による海水浴の利用が増え、江の島周辺も徐々に賑わいを取り戻し始めます。
また、明治20年(1887年)の藤沢駅開業、明治35年(1902年)の江ノ電開通、明治24年(1891年)の江の島弁天橋竣工などによって、江の島のアクセスが格段に向上し、首都圏在住者の保養地として栄えるようになりました。
明治~大正にかけては、皇室のご休憩・ご宿泊所としても多く用いられ、明治27年(1894年)に葉山御用邸が竣工されるまでの間、何度も当館にご宿泊いただいております。
四十七代目の大改革
「岩本楼」は明治の一時期、後継者問題によって存続が危ぶまれますが、47代目当主・岩本兼吉・ハナ夫妻の奮闘により、大きな飛躍期を迎えます。夫妻は当時の旅館で一般的であった茶代、席料を全廃して宿泊料金を低廉にし、国行脚をしながら「岩本楼」を宣伝して回りました。
大正5年(1916年)には、大理石の浴場と入浴しながら眺められる人工の弁天滝、総檜造りの奈良朝式休憩室を建設。さらには藤波文琳画伯を招聘して奈良朝時代の美人画を描き、約2年の歳月をかけて新たな温浴施設を完成させました。
名物「岩本楼ローマ風呂」の完成
また、昭和5年(1930年)には、「岩本楼ローマ風呂」(現国登録有形文化財)を竣工。古代ローマの馬蹄型のテルマエ(浴場)に範をとり、天井は聖堂を思わせるステンドグラス張りに。柱や正面の壁には、当時の国内窯業界の泰斗・小森忍氏制作のテラコッタ(陶器)を貼り、古典的雅趣とモダンさとを合わせ持つ、当時としては非常に画期的な浴場を作り上げました。それからというもの、ローマ風呂は全国各地で話題を呼び、岩本楼の名物風呂となりました。
その後、戦時体制の強化と物資統制などにより別館は閉館を迎え、「岩本楼本館」も造船会社や海軍部隊の宿舎として利用された時期もありました。しかし、終戦後の昭和25年(1950年)に返還を受け、再び旅館「岩本楼本館」として直営し、現在へと至っています。
仲見世通りの顔として
これまでも、これからも
現在、当館は創業から一五〇有余年。
時代とともに当館を取り巻く環境は大きく代わり、幾多の困難を経ながらも、皆様のおかげでこれまでの歴史を歩んでくることができました。
今後も「岩本楼本館」は、弁財天仲見世通りの風景とともに、江の島を代表する宿として親しんでいただけるよう、努力と研鑽を重ねてまいります。
岩本楼年表
鎌倉初期|「岩本坊」開山
佐々木家(岩本家前身)が「院」号を与えられ「岩本坊」から「岩本院」に。江の島一山の総別当となり江の島岩屋・奥津宮の管理を担う